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生きること・学ぶこと
文:吉田公平

第三十二回

「対話」


対話という言葉が日常的に使われるようになるのは近代になってからのようだ。他者との会話のあり方を示す用語の一つである。

相互に呼びかけ、問いかけて、それに応答して啓発しあい、理解を深め高めること。この対話(ダイアローグ)に対して、独話(モノローグ)という言葉がある。

一人語り、或いはもう一人のわたしである自己内他者との対話ともいえる。
一人語りではあっても、そのわたしに対する批判者を自己内に設けている場合には、外形は独話ながら内容は対話になる可能性がある。

自己内他者に自己を擁護する役割を与えてしまうと、自己弁護となり、高じては自己満足、独善自得、独尊自慢に陥ることになる。

独話は、自分の世界に閉じこもりがちだ。また、講話・法話・演説・説教・釈伏などは、「他者に」一方的に語りかけるという姿勢が濃厚であり、「他者と」との対話とは異質である。

問答(師弟問答)・或問(自問自答)という様式もあるが、この場合は「正解」が前提されており、新しい問いが新しい答えを、その新しい答えがさらに新しい問いを呼び起こすという展開が組み込まれていない。座談・対談・鼎談は対話に近いといえばいえますが、司会者・進行係がよほど絞り込みを適切に行わないと、放談・漫談になりかねない。他者と話をするという場合についても、その姿は多様なのだ。

対話が成立する条件のいくつかについて述べる前に、『荘子』秋水篇に見える荘周と恵施の問答を紹介する。

荘周がある時、恵施と濠水にかかる石橋の上を散歩した。

荘周が言った。ハヤがのんびりと泳いでいる。魚は楽しそうだね。
恵施が言った。君は魚ではないのに、どうして魚が楽しいのだと分かるのかね。
荘周が言った。君は僕じゃないのに、僕が魚の楽しみが分からないと、どうして分かるのかね。
恵施が言った。僕は君じゃないから、勿論君のことは分からない。君は魚じゃないから、君が魚の楽しみが分からないには、疑問の余地がない。
荘周が言った。根本に立ち返って議論しよう。君は「どうして魚が楽しいのだと分かるのかね」と言ったのは、既に僕が分かっていることを理解したから、僕に尋ねたのだろう。僕は濠水のほとりで分かったのだ。

この「対話」をどのように読み解くか。このやりとりは水掛け論の様相を呈している。

しかし、この対話の味噌は、最後に荘周が「根本に立ち返って議論しよう」と提案したところにある。前の二度の応酬はお互いにお前に魚のことが、或いは俺のことが「どうして分かるのだ」と言いがかりを付けている。

分かる・分からないというレベルで応酬する限り、話は進展しない。そこで荘周は、この応酬の発端になった恵施の問いそのものの成立根拠を問題にして、荘周が魚の楽しみを分かっていたことを恵施が理解していたという。だからこそ、魚ではない荘周がどうして魚の楽しみが分かるのだと問えたのだという。

荘周は不可知論を回避した。我々が「分かる」という場合、「分かる」とは所詮は「わたし」が分かるしかない。

他人がわたしの代わりに分かることを代行することは出来ない。「僕は濠水のほとりで分かったのだ」というのはそのことを言う。

「分かった」と確信する内容を批判することは出来る。しかし、荘周自身が「分かった」と確信する事実そのものは否定できない。そのことを承認するところに対話が成立する。

他者性の尊重とはこのことを言うのである。



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